HSPを巡る現況。そしていま発信者に求められることとは?(前編)
年月は早いもので、私は、本ブログで「HSP」を発信し始めてから、4年も経つことになります…。
その間、「HSP」を巡る状況が、刻々と変化していきました。
私がSNSを始めた頃は、「HSP」という言葉をもとに、人と人とが緩くつながる程度の状況でした。
ただ、芸能人が「HSP」という言葉を触れたのち、多くの人に知られるようになり、状況は変容しました。
「HSP」という言葉が良くも悪くも注目されるキーワードになり、多くの人がSNS等に参入した結果、悪い面も見られるようになり、例えば誤った情報が拡散されたり、悪徳商法・カルト等での商用文言として使われたりするようになりました。
こうした状況を揶揄して「HSPブーム」とも言われるようになり、以前本ブログで、発信者目線からこの状況を俯瞰し、ブログ記事にまとめました。
「HSPブーム」はなぜ問題視されたのか?【行動経済学で考察】
あれから一年、「HSP」を巡る状況はまた一変したと私は考えています。
そして、「HSP」にまつわる発信者に求められることも、変容しているように思います。
そこで今回は、改めて発信者の立場から、「HSP」を巡る現況について俯瞰して整理するとともに、いま発信者に本当に求められていることを考察したいと思います。
(※)本記事の内容は、私の解釈が過分に含みます。一方で、特定の人物を批判する目的でないことをご考慮の上、ご覧いただけますと幸いです。
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この記事の目次
HSPを巡る現状
(1)「HSPブーム」について
最近、私の友人と話していて、3人くらいから「HSP」のことについて、会話の中で出てきました。
私は特にブログ活動などをやっていることは伝えておらず、メンタルに関する話もあんまり興味のない友人から「HSP」という言葉が出てきたのは、一般的に「HSP」が普及した証左でもあると考えられるのではないでしょうか。
【筆者作成図(クリックで拡大できます)】
さて、昨年綴った「HSPブーム」の問題性を考察した記事では、昨年頃に芸能人が「HSP」を話題にするなどし、良くも悪くも数字が取れる言葉になったとお伝えしました。
その結果、「HSP」という言葉を使うことでみんなに注目されることから、発信者(ブロガーやYouTuber等)、メディア、そして医療関係者の一部などが、「HSP」という言葉を使うようになりました。
こうしたことから、一般の方々にも、「HSP」が知れ渡る結果になったと考えられます。
【筆者作成図(クリックで拡大できます)】
さて、昨年の私の記事では、各主体の相関図を簡単に作ってみました。
詳しく説明すると長くなってしまうので、詳細を知りたい方は記事を見てもらいたのですが、学術的定義としての「HSP」を発信者が拡大解釈・縮小解釈して拡散してしまい、それを一部の臨床家が支持する形となってしまい、この誤解釈の拡散を「HSPブーム」の問題性としてお伝えしました。
さて、あれから一年が経ち、状況がまた一変したと私は考えています。
ここから、「HSP」を巡る現状を、述べていきたいと思います。
(2)分裂する発信者たち
私が発信をし始めた4年前には、「HSP」に関して学術的な話題をネット上で見ることはありませんでしたが、日本のHSPの研究者たちが開設したサイト「Japan Sensitivity Research」をはじめ、SNS上でも学術者による発信が強化され、この1年で正しい情報も一定流れたと考えています。
その一方で、こうした流れを受けて、「HSP」に関する発信者たちは、大きく分裂したように思います。
そこで、ポジショニングマップとともに、発信者を大きく4つのグループに分けてみました。
【筆者作成図(クリックで拡大できます)】
①一般に受け入れられやすい概念としての「HSP」を発信する層 ②学術的概念としての「HSP」を発信する層 ③自分のキャラを表すワードとして「HSP」を使う層 ④「HSP」という言葉を使うのをやめた層 |
それでは、各層について、それぞれ考察したいと思います。
①一般に受け入れられやすい概念としての「HSP」を発信する層
①は、人々の悩みの声などをもとに情報を発信する層であり、学術的な内容よりも、経験的な内容を重んじています。
こうした発信は、社会規範(使命感や趣味)で実施している人も見かけますが、他の層に比べると、市場規範(ビジネスや人気稼ぎ)で取り組んでいる人が最も多い状況にあります。
学術的定義もうまく取り入れながらバランスよく発信する人もいれば、学術的定義は敢えて無視する形で発信する人や「非HSP」という形で敵を作る形で発信する人もいます。
②学術的概念としての「HSP」を発信する層
②は、学術者による発信を分かりやすく解釈して発信する層であり、経験的な内容よりも、学術的な内容を重んじています。
こうした発信は、社会規範(使命感や趣味)で実施している人の方が多い印象です。一方で、非専門家でありながら、市場規範(ビジネスや人気稼ぎ)で取り組んでいる人も見かけるようになりました。
①などの経験的な内容を重視する人に配慮しつつも情報発信する人もいれば、①などの経験的な内容を重視する人に対して攻撃性のある発信をする人もいます。
③自分のキャラを表すワードとして「HSP」を使う層
③は、自分のキャラを表すワードとして、SNSのプロフィール等に「HSP」という言葉を使うだけで、特に「HSP」自体には言及しない層です。
SNS上においては、市場規範(ビジネスや人気稼ぎ)でSNSをやっている人・社会規範(使命感や趣味)でSNSをやっている人のいずれも、見かけます。
市場規範(ビジネスや人気稼ぎ)でやっている人は検索数アップに向けた自分のキャラ付けのために「HSP」を使っている人もいれば、社会規範(使命感や趣味)でやっている人は同質的な人と繋がりたいために「HSP」を使っている人もいます。
裏を返せば、上記のような目的優先で「HSP」を使っているため、「HSP」自体の定義の正しさなどには、特段の興味を持たない層だとも言えます。
④「HSP」という言葉を使うのをやめた層
④は、これまでSNS等で「HSP」というキーワードを使っていたものの、使わなくなった層です。
「HSPブーム」を受けて批判が多くなった等を理由に活動自体をやめた人もいれば、そもそも「HSP」という言葉を使わなくても一定の影響力が出るようになったので「HSP」という言葉を使わないようになった人もいます。
本記事の本質にも迫る部分ですが、この1年間で「HSP」という言葉をきっかけに議論や対立を生みやすい言葉になったので、逆に「HSP」という言葉がSNS上での活動において自分のブランディングの邪魔になったり、トラブルに巻き込まれたりする要因になると思った人も多いのではないかと思います。
なので、これまで「HSP」という言葉を使っていたものの、急に使わなくなった人は多く見かけます。
(3)発信者の極性化
さて、私がなぜHSPを巡る現況を整理し、お伝えしたいかと思ったかというと、この状況が問題を招いているからです。
私が4年前に発信していた時に比べて、過激的な発信が増えているということです。
これは、昨年にHSPブームの問題性を綴った記事を書いたときよりも、エスカレートしています。
例えば、敢えて学術的な意見を無視して「非HSP」を敵視させるような発信や、逆に学術的な意見を欠いた発信に対して過剰に攻撃する発信をみることもあります。
これは、発信者個々がモラルを欠いているという訳ではなく、インターネット上の情報流通で起こりやすいと言われる「サイバーカスケード」という現象によって、発信者たちの極性化が加速していると考えられます。
総務省の情報通信白書では、以下の指摘がなされています。
米国の法学者サンスティーン(2001)はネット上の情報収集において、インターネットの持つ、同じ思考や主義を持つ者同士をつなげやすいという特徴から、「集団極性化」を引き起こしやすくなる「サイバーカスケード」という現象があると指摘した。
集団極性化とは、例えば集団で討議を行うと討議後に人々の意見が特定方向に先鋭化するような事象を指す。討議の場には自分と異なる意見の人がいるはずなので、討議することで自分とは反対の意見も取り入れられるだろうと思われるが、実際に実験を行ってみると逆に先鋭化する例が多くみられた。
(中略)
こうしたもともとある人間の傾向とネットメディアの特性の相互作用による現象と言われているものとして、「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」が挙げられる。
ア エコーチェンバー
「エコーチェンバー」とは、ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたものである。
(中略)
イ フィルターバブル
「フィルターバブル」とは、アルゴリズムがネット利用者個人の検索履歴やクリック履歴を分析し学習することで、個々のユーザーにとっては望むと望まざるとにかかわらず見たい情報が優先的に表示され、利用者の観点に合わない情報からは隔離され、自身の考え方や価値観の「バブル(泡)」の中に孤立するという情報環境を指す。
みなさん、他人のSNSを見たことがありますでしょうか…?きっと、多くの人が自分のSNSしか見たことがないと思います。
例えば、同じTwitterであっても、自分と他人のTwitterの画面では流れている情報が全く変わります。
上記で指摘されるのは、一言で言うと、SNSなどの特徴として、自分が発信する意見と似たような意見ばかりが溢れるようになってくるということです。
その結果、集団的に意見が先鋭化(過激化)するということで、指摘されています。
「HSP」が言葉として普及した結果、まさにこのサイバーカスケードの波にのまれ、発信者たちの極性化が引き起こされていると考えます。
その結果、SNS上での個人の意見としても、過激な内容がエスカレートしているものだと考えられます。
さらに、SNSだけが世界のすべてではないということも指摘する必要があると考えています。
よくTwitterで見るのが、「みんな≒Twitter民」を指しているツイートです。
当然ながら、SNSをやっていない人もたくさんいるし、SNSで表れる言葉だけが世の中を正しく捉えられているわけではありません。
でも、SNSにどっぷり浸かると、その状況が見えなくなります。
石井(2011)では、SNSごとにも「強いつながり」か「弱いつながり」かの特徴があり、利用者の状況によってSNSが使い分けがなされていることが示唆されています。
そのため、例えば主にTwitterを利用していて、Twitterに現れる言葉がSNS全体の総意かと言われると、そうでもないということも言えるのではないかと考えられます。
さらに、HSPという言葉を使ったビジネスも増える中、「羨望」「嫉妬」「焦り」という感情も見え隠れするようになり、余計に状況が複雑化していると考えられます。
それでは、こうした状況を踏まえて、いま本当に発信者に求められることを考察します。
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いま発信者に求められることとは?
(1)現況の問題
さて、冒頭に私は、(メンタル界隈には特に興味のない)3人の友人から「HSP」に関する話を聞いたと言いました。
そのうち、2人からはこう聞きました。
「自分の嫁がHSPって言ってるんだけど、甘えだよね?」
「HSPとか言ってる人を見るけど、HSPっていう定義自体に疑問がある!」
つまり、何が言いたいかというと、一般の人たちには、学術的定義ではなく一般に受け入れられやすい意味での「HSP」が普及されており、なおかつ「賛否」的な解釈も付随して普及されているのではないかと考えられます。
こうした状況を、HSPに関する発信者たちは望んでいたのでしょうか?
少なくとも、4年前にHSPに関する発信をしていた人たちは、こうした状況を望んでいなかったと思います。
私が1年前に綴った記事でも触れましたが、「HSP」という言葉は人々が共通して抱える抽象的な悩みを包含している用語だったからこそ、流行したと考えられます。
そして、そうした悩みに対して何らかの助けができないかという思いを持つ人が、発信者の中には多いと考えられます。
でも、一般の人々から見た「HSP」は、『対立』の解釈を含んだ情報が普及されているわけです。
そして、「HSP」によって自分の悩みの本質が見えづらくなっていることも問題なのではないかと思います。
私は、先日Twitterで、以下のようなツイートをしました。
「自分がこの界隈を良くしなきゃいけない!」という正義感は、心に秘めたる闘志くらいがちょうどいい。
正義感を剥き出しにして争いが生まれると、「誰が敵で誰が味方なのか」ということが主題になる。
周りの人からしたら、そんな界隈に近づきたくないよね…?
自ら、品位を下げるのはやめよ。
— ぽん乃助@繊細の生存戦略 (@suke_of_pon) April 23, 2022
「HSP」の発信者たちの中にも、いじめの原因などにもなり得る『正義』が垣間見えるようになったような気がします。
その結果、「HSP」という言葉に対する品位も、落ちているように私には思えるのです。
(2)「HSP」を名乗る人が本当に求めていたこと
【クリックで拡大できます】
ITビジネスの難解なプロジェクトを風刺した絵として、上記の絵が一時期、ネット上に話題になりました。
簡単に解説すれば、システム構築をしたい顧客側の立場として「顧客が説明するもの」と「顧客が本当に必要とするもの」はズレていて、システム構築を行う業者側の立場としては「営業が説明するもの」と「実装されたものや請求額など」にズレが発生するということを、表した絵となります。
私は、「HSP」を巡る現況において、こうした状況が発生してしまっているのではないかと思います。
具体的には、「HSP」を名乗る人が、何らかの「悩み」を抱えていたものの自分の言葉でうまく説明できず、発信者たちがこの「悩み」に対して解釈を誤って、情報やサービスを提供しているのではないかということです。
それでは、「HSP」を名乗る人たちが本当に求めていたことは何だったのでしょうか?
それは、HSPのボランティア活動に励んでいらっしゃっていた、やまだなおこさんのNoteの記事にヒントがあると思っています。
今ではボランティア活動を停止されており、その理由を綴った記事の一部を引用させていただきます。
変わってしまったもの、失われてしまったもの
とある交流会で、私は自分が撮影した写真を見せる機会がありました。
私はずっと「写真撮るのが上手だね」と言われることにうっすら違和感を持っていて、もちろん技術を褒めてもらえるのは嬉しいことではあるんですが、私は「その瞬間、私が美しいと感じたものを形に残したい、誰かに見せたい」と思ったからシャッターを押していたので、それを「技術」の話にされるのがどこか悲しかったんです。
そんな話を当時友人に話しても通じなくて、「今、撮らなきゃ」という衝動と、それだけ揺さぶられるものに出会えた喜びを理解してもらえない寂しさがありましたが、写真を見た方が理解して汲み取ってくれました。
私が交流会に求めていたのは、こんなやり取りだったんだと思いました。でも今、こんなやり取りができる場は、どれくらい残っているだろう。
悲しんでいる人を見ると自分も悲しいから、少しでも気が楽になるように何かしたいし、怒っている人を見たらその怒りの背後に隠れている本当の思いが気になるし、周りの人たちが嬉しそうだと自分もなんだか嬉しくなってしまうこの感受性が脆弱性になってしまう社会では居場所がなくてとても生きづらくて、この感受性を理解してもらえるつながりをずっと探していて、だからこの感受性をプラスにできるということ、こんな自分だからこそできることがあると知れたことは大きな希望だったのですが、今、私の伝えたいことを受け取ってくれる人はどれくらい残っているだろう。
私の力ではどうにもできず、変わってしまった現状を見るのが悲しかったです。
そしてふと「HSPという言葉はもう私たちのものではなくなってしまったのだな」と感じてしまいました。
もう私にはやれることがない、きっとこれが潮時だ、と。
だいぶ前から「休め」「何よりも自分を大事にして」と散々たくさんの人たちから言われていた私なので、これもいいタイミングなんだと思っています。
本来は精神医療を受けるべき人が、HSPという言葉に包含されてしまって、病院に行かないという事象(逆に、本来は精神医療を受ける必要がない人が、HSPという言葉によって、病院に行くという事象)を指摘する人もいます。
また、何らかのサービスを受けたいわけじゃなく、やまだなおこさんの記事のように、気質を受け入れ合う・自分の存在価値を受け入れ合うといった、緩やかなつながりを求めていた人が多かったのではないでしょうか。
そして、自分の悩みに絶望せずに、少しずつ前を向くための知見や希望が欲しかった人も多かったのではないでしょうか。
私も例外ではありませんが、発信者たちにいま求められることは、「HSP」を名乗る人が本当に求めていたことに向き合うことなんじゃないかと思うのです。
決して、上記に挙げた絵のように、華々しい営業的な説明をすることが求められてはいないのではないかと思うのです。
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おわりに
今回は、私が「HSPブーム」の問題を綴ってから一年が経ち、あの時とは異なる状況になっていると思い、改めて記事を執筆するに至りました。
私の問題意識は、どんどんHSPの発信者たちが極性化していき、「HSP」を名乗る人が本当に求めていたことからどんどん離れていくのではないかという危惧と、「HSP」に対する品位がどんどん下がっていくのではないかという懸念にあります。
決して誰かを批判する意図はないのですが、こうした俯瞰的な記事を書くと、どうしても「自分が批判されている」と思う人が出てしまうため、こうした記事を執筆するのは勇気がいります。
そして、自分のこれまでやってきた活動を否定することにもつながるため、相当な覚悟も要するわけです。
ただ、4年以上も「HSP」の発信を続けてきて、私が発信してきたことが良くない方向に傾いてしまうのはどうしても納得がいかないし、現況においては自分自身にも責任の一端があると思っているため、発信者の立場としての「#HSPの功罪」を、Twitterのような極性化を招きやすい場で短い言葉で説明するのではなく、自分の言葉で整理しなければならないと考えたわけです。
そして、こうした記事において、熱を持ってボランティア活動を励んできたやまだなおこさんに、記事の引用を許諾いただいたことを、この場を借りて感謝申し上げます。
今回は、自分の思いが一つの記事に収まらないため、前編・後編に分けさせていただくことにしました。
後編は、「学術者と発信者の溝が深まる理由の考察」と「私自身が望むミライ」について、綴っていきたいと思っています。
GW中には、何とか本記事が終幕できるように綴っていきたいので、引き続き応援いただけるとありがたいです!
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